文様にみる染織の歴史
日本には四季があります。
そして、日本人は、その四季の変化と、それに応じて身の回りで生じる自然の
移り変わりを敏感に感じ取り、季節に応じて、それぞれにふさわしい生地や色、
文様の選択がおこなわれてきたのです。
日本の染織品に見られる文様そのものは、時代をさかのぼり、
飛鳥・奈良時代に源を求めることができます。その時代の違例は、
正倉院や法隆寺に伝えられていますが、染織品はいたみやすく、
実物が残っているものは少ないようです。しかし、伝統的な文様としては、
漆器・陶器・金属品、その他の工芸や絵画に見られ、それらをもとに
伝統的な文様が現代に受け継がれています。
正倉院や東大寺に収められている工芸品は、中国を経て輸入された
外国製品が多く、日本製のものでも、中国の影響を強く受けています。
その中で、染物は比較的日本製のものが多く、一方、織物はほとんどが
唐製といわれています。
正倉院には「蝋纈」(ロウケチ= 蝋染め)・「纐纈」(コウケチ=絞り染)・
「夾纈」(キョウケチ板じめ染)の三纈〈サンケチ〉と呼ばれる代表的な染め物があり、
その文様も現在に受け継がれています。
これらに見られる古典的な文様は、中国よりもさらに西のシルクロードの国々
のものを含み、中国を経て伝えられたものです。
亀甲(キツコウ)・格子(コウシ)・縞(シマ)・石畳・菱(ヒシ)・七宝(シツポウ)・鶴(ツル)
・宝相華(ホウソウゲ)・鳳凰(ホウオウ)・孔雀(クジャク)・葡萄(ブドウ)・オーム
・鴛鴦(オシドリ)・鴨など多様ですが、今日では日本の文様としてすっかり消化
されているといえるようです。
平安時代は女性的な文化の時代といわれ、染織の世界でも女性達が競って
美しい染織品をつくり出しました。
「十二単」〈ジュウニヒトエ〉に表れている四季折々の草花の色彩の変化、
その重ねの色目のハーモニーは、日本の自然からしか生まれてこないもの
といえるでしょう。
当時の衣服の実物を見ることはできませんが、絵画に描かれている場合が
参考になり、その美意識は、現代の文様製作の上でも大きく役立っている
とのことです。
また、その絵画においても、日本の景色や人物を美しい色彩で描いた
「大和絵」が、注目されます。
その優雅なおもむきに満ちた表現方法は、今日の着物に生かされている
のです。
室町時代、足利義満が京都の北山に「金閣」を建て、後に義政が東山に「銀閣」
を建て、両期の文化をそれぞれ北山文化、東山文化といいました。
特に北山文化は公家と武家の文化がとけ合ったことで注目されますが、両文化
ともに、新しく明の文化を受け入れたことで、独特の世界を完成させました。
能楽・絵画・茶道・活花・建築・造園・工芸などのあらゆる芸術の分野で
独自の気風が高まり、庶民の間でも明るくのびのびとした風潮が芽生え始め
ました。
明の文化や禅宗を始め、海外の文化と共に縮緬(チリメン)・繻子(シュス)・綸子
(リンズ)などの織物やその製造技術も日本に伝えられ、
1555年頃、新しい紋織法が日本でも開発されました。
数々の美しい外国の織物に刺激を受けた京の職人たちも、金襴や緞子(ドンス)、
紋紗(モンシャ)などの唐織物を製品化できるようになりました。
桃山時代から江戸時代にかけて、南蛮紅毛貿易によりもたらされたものは、
日本の染織技術や文様に大きな影響を与えました。
唐棧(トウザン)(棧留縞)(サントメジマ)や更紗などの多彩を用いた木綿の織・染物
の渡来も見落とすことはできません。
室町・桃山・江戸初期は、織物の目覚しく発達した時代といえるでしょう。
当時流行した能楽にも、新来の織物である唐織が盛んに用いられ、
日本の染織美に新しい要素が加わりました。
桃山時代におられた唐織能装束の「雪持柳文様」もその後、
雪持笹・雪持椿など、積雪に耐える植物の素晴らしい文様パターンを生む
きっかけを作りました。
一方、やはり明の影響を受けて、刺繍(シシュウ)・摺箔(スリハク)および繍箔などが
華麗な世界を表し、その他、絞り・描絵などの技法が盛んに用いられました。
平安時代のような極端な重ね着をしない、桃山時代以降の服飾では、
文様が装飾美の大半を担うようになりましたが、
桃山時代から江戸時代のきものには、四季それぞれに見られる植物や動物、
自然現象をモチーフとする文様が多くみられます。
たとえば、桃山時代の着物には、四季それぞれの植物が、時には季節ごとに
まとめられ、時には取り混ぜて表されます。
ただ春に着る着物だからといって、春の桜やタンポポ、秋だからといって菊や
紅葉だけが表されるということではなく、それらに加えて、百合や椿といった
夏や冬の植物も一緒に表され、四季すべてのモチーフが取り揃えられるのが
普通でした。
これら「四季文様」は、小袖や打掛などの一般の衣服だけでなく、能装束のような
芸能衣装にも見られますから、人々がその文様に求めたものは、自然の持つ
生命力そのものの表現ではないかと思われます。
江戸時代になると、植物をモチーフとする文様が、桃山時代よりも多様な展開を
見せるようになります。
ここでもすべてが、「植物文様=季節感の表出」ということにはならず、
季節感の表出以外の目的で、モチーフとされることが多くなってきました。
吉祥文様がその典型です。
女性の着物においても、季節感を表す文様よりも、吉祥文様のほうが多いほど
です。
吉祥文様は「おめでたいこと」を求め、喜び、そのことを知らしめる文様。
「吉祥」という言葉自体が、そもそも「よいしるし」「めでたいしるし」という意味を
もっており、吉祥文様はこの概念を視覚化したものです。
婚礼衣装にかぎらず、晴れ着や外出着、日常着にそれらは表されました。
おめでたいとされるモチーフや主題は、様々な形で意匠化され、女性の着物を
飾りました。
日本の染色品に見られる吉祥文様を分類してみると、おおむね次の二つに
分けることができます。
一つは、中国からもたらされ、その後日本で吉祥文様として定着したもの。
これには、もともと中国で吉祥的な意味をもっていたものが、日本でもそのまま
吉祥文様として使用されたものと、
中国では吉祥的な意味合いがさほど強くなかったか、まったくなかったが、
日本で独自に吉祥的な意味があたえられたものとがあります。
飛鳥時代から奈良時代にかけて、日本は中国の影響を強く受け、
中国で古くから吉祥文様とされていた籠や鳳凰(ほうおう)、雲気などが、
日本でも吉祥文様とされ、その後長く染織文様として用いられました。
しかし、これらの文様は、モチーフの姿があまりにも異国的であり過ぎた為か、
衣服にはあまり用いられませんでした。
続く平安時代には、文化の国風化の動きに従って、前代に中国から
もたらされた吉祥文様に対しても、取捨選択と和風化が行われました。
吉祥文様として最も一般的な鶴の文様は、もともと中国でも亀の文様とともに
長寿を象徴するものとされていましたが、日本でもことのほか愛され、
その後、吉祥文様の中心的存在として、繰り返し意匠化されました。
婚礼衣装に最も多くみられるのは、この文様です。
また、着物にかぎらず、吉祥文様として我々に最もなじみ深い松竹梅文様は、
松、竹、梅、それぞれのモチーフは中国に起源をもつものですが、
中国では、いずれも特に吉祥の意味が強いというものではありませんでした。
そもそも、寒中に耐えて凛とする松、竹、梅は、中国では、「歳寒三友」と
呼ばれ、節操と清廉の象徴ではあっても、籠や鳳凰のように強い吉祥性を
含むものではありません。
しかし、日本では、松、竹、梅が持つこうした好イメージが拡大解釈され、
特に近世以降、吉祥文様としての性格が強まっていったのです。
一方、純国産とも言うべき吉祥文様があります。
たとえば、橘(たちばな)は、日本で生まれた吉祥文様の代表的なものの一つ
です。橘は、理想郷とされる「常世国(とこよのくに)」からもたらされる果実で、
長寿を招き元気な子どもを授かると信じられていました。
正月の鏡餅の上に、橙(だいだい)やみかんがのせられるのもそのためであり、
また橘が、婚礼衣装や袱紗(ふくさ)、嫁入り支度の風呂敷などにしばしば
意匠化されているのも、こうした由来によるのです。
また、江戸時代以降、吉祥文様として意匠化されるようになったものに、
御簾誰や几帳、冊子、御所車といった王朝風の文様があります。
これらは、人々の間に古きよき時代としての平安時代への憧れが生じると共に、
その感情が増幅されて、王朝期を連想させるモチーフに、吉祥の意味合いを
含ませるようになったと考えられます。
宗教的な背景を持たず、優雅で華やかなその意匠は、それゆえにしばしば、
婚礼の衣装に使用されてきました。
このような伝統的な文様は、明治時代以後も女性の着物に受け継がれ
ましたが、明治時代の後半から大正時代にかけては、科学染料や、新しい
染色技法の定着と、海外の美術や工芸意匠の影響を反映して、
これらを下敷きにしながらも、近代的な意匠が生まれました。
鮮やかな色使いと洋画的で写実的な表現を特徴とする文様がそれです。
明治の文様においては、江戸の流れをそのまま受け継ぎながらも、新しい
時代の文様染が求められ、例えば写生的な表現などに顕著です。
しかし、新しい文様はなかなか想像されず、ぼかしを入れた絵画的な絵文様
の出現などに、その混迷の程を見ることができます。
明治も30年代に入るとようやく、新しい文様の形式が見られるようになりました。
当時フランスで流行した、アール・ヌーボー(曲線を主体とした美術様式)の
影響を受け、日本風な雲や流水などを曲線や渦巻に見たてたり、
蔓草(ツルクサ)などをあしらったものが、一時的に流行しました。
また、文様の題材に、はじめて洋花が用いられたのもこの頃です。
明治後期には、さらに主題をひろげて動植物をアール・ヌーボー風の曲線で
表わしたり、いろいろな試みがなされています。
やがて昭和になり、ついには戦争を境に、女性の洋装化、和装離れが
進みましたが、和装を着用する頻度が以前に比べて減ったとしても、
着物にみられる文様は、日本文化を象徴するものであることには
違いありません。
時代が変わってもその心は現代まで伝えられていて、その文様から逆に
日本人の伝統の心をうかがうこともできるのです。
<参考引用文献〜きものの文様の変遷(長崎巌)ほか〜>
2005年12月31日 12:43
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