友禅染と西陣織
ここでは、京都の織りの代表、西陣織と、染めの代表、友禅染めについて
その歴史を調べてみます。
<西陣織りの歴史>
西陣における織物の起源は平安時代にさかのぼります。
当時、この地域には、宮廷の織物を任せられた「織部司」があり、
そこでは、服にうるさい貴族も満足するような最高級の織物が織り出されて
いました。
平安中期以後、官営の織部司は衰えましたが、織手たちは元々いた織部町の
近くにあった大舎人町(おおとねりちょう)に移って自ら織物業を始め、盛んに
美しい織物を作りました。
それらは「大舎人の綾」と呼ばれる人気ブランドになり、時代が鎌倉、室町と
移っても時の権力者達からごひいきを受け続けたのでした。
室町時代、応仁の乱という大乱によって京都の町は無惨に焼け落ちました。
商売どころではなく、業者たちは堺、奈良、山口などに散らばって避難し、
京都の織物業は一時崩壊してしまいました。
しかし戦乱が終わって復興が始まると、業者たちは住み慣れた京都へ戻り、
その一部は白雲村(現在の上京区新町今出川上ル付近)に住み、練貫座と
呼ばれる集団を作りました。
他の一群は西軍の本陣として使われていた大宮辺りに住んで大舎人座を作り、
戦乱で生産が止まっていた人気ブランド「大舎人の綾」を再び復活させたのです。
こうして西陣の名は生まれ、そこで生産される織物は「西陣織」と呼ばれるように
なりました。
その大舎人座と練貫座ですが、市場や技術をめぐり、対立することが多かった
そうです。
ある時、布に模様のある織物をどちらが織るかについての争いが発生し、
結果、西陣・大舎人座がその権利を勝ち取り、柄物を作る環境が整いました。
さらに大陸から伝来した高機(たかはた)という技術を取り入れ、
前もって染めた糸を使って色柄や模様を織りだすことに成功したのです。
その後の西陣の繁栄は、1571年の「言継卿記」(ときつぐきょうき)から知ること
ができます。
当時流行していた風流踊り(ファッションショーのようなもの)をレポートした記事
には、「西陣の町がもっとも素晴らしかった」との記述があるそうです。
さらに同年に大舎人座の31家のうち6家が、織司の日本選抜ともいえる
御寮織物司に任命されました。
豊臣秀吉もまた西陣に保護を加えました。
安土桃山時代には、堺の港を通じて明の優れた技術が輸入され、西陣では
新しい沙綾や紋織などが考案されました。
そうしてセレブも愛するゴージャスな西陣織の基礎が築かれていったのです。
このような経緯の末に、西陣織は京都だけでなく、日本を代表する絹織物の
生産地となったのです。
さて、江戸時代に入っても幕府の保護は厚く、諸大名やリッチな町人層を中心に、
高級織物の需要は増加の一途をたどりました。
これにより西陣は、さらに発展を続けます。
国産の生糸だけでは品質や量が織の技術に追い付かず、中国産の輸入糸も
西陣がほとんど独占してしまったほどです。まさに黄金時代です。
しかし、江戸時代後期になると西陣にも苦境が訪れました。
度重なる凶作や不況で世の中が不安定になり、人々はゴージャスな着物を着る
余裕がなくなってきました。
さらに、二度も大火事が発生する不運や、丹後や桐生など、各地方で新しい
絹織物産地が台頭してきたこともあって、それまでの独占的な地位は失われて
しまったのです。
そしてついに東京への遷都が行われます。
このことは、京都の街から活気を奪っただけでなく、貴族や庶民を含めて
服装の洋風化をもたらし、西陣織の需要は減少しました。
しかし、昔から、海外の先進技術の導入に積極的であった西陣は、
佐倉常七、井上伊兵衛、吉田忠七の3人をフランス、オーストリアなどに派遣し、
最新技術の研究をさせました。
その結果、ジャカードやバッタンなどの最新機械を輸入することができ、
西陣織の技術は再び飛躍的に発展しました。
さらには日本絹織物業の近代的な技術革新の地となって、再び活気を
取り戻したのです。
大正、昭和にかけては、新しい技術やデザインの開拓を続けながら、伝統的な
日本の絹織物産地として、全国に名を馳せた西陣。
しかし、現在は着物の需要の低下と共に、倒産や転業に追い込まれたり、
規模を縮小する織物業者が増えてきています。
西陣からは年々、機の音が消えているのが現状といえます。
技術面ではコンピューターの導入が進み、効率の良い生産が、可能にはなり
ましたが、一方では長年かけて開発した意匠の盗用や流出が簡単にできて
しまうなど、新たな問題も出てきているそうです。
しかし現場の方々は、京都人として、日本人として誇るべきこの伝統を
絶やしてはならないと考え、伝統技術を根底から崩さないためにも、
今が西陣の踏ん張りどころであると、新しい展開をも含めて、日々研鑽されて
いるのです。
<友禅染の歴史>
友禅染は、一つ一つの工程を、専門の職人が分業することによって仕上げる
のが特徴です。
華やかで多彩な模様に、刺繍や箔による装飾が加わった絢爛豪華な染は、
日本の代表ともいわれています。
この技術は、どのような歴史を経て完成されてきたのでしょうか。
その始まりは、カリスマデザイナー友禅斎の登場です。
友禅染は、今から三百年前の元禄時代に、宮崎友禅斎という人物により
始められました。
友禅斎は扇絵師で、それまでの麻地に藍一色の単彩風に染めた「茶屋染」
の技術を基本にして、素晴らしい模様を扇に染め出しました。
彼の扇は飛ぶように売れ、それに着目した呉服屋さんが、着物の柄として染め、
売り出したところ、大好評を得て、瞬く間に広まりました。
友禅斎の図案は、扇から染物にいたるまで大人気となりました。
その評判を聞きつけた当時の出版社は、早速、彼に図案を一覧にした本を
描かせ、「大風流模様尽」と題して売り出したのです。
これがきっかけとなって、人気はついに全国クラスとなり、友禅模様が大流行
するようになりました。
友禅染は、彼の死後も、さらに人気を博し、流行しました。
その理由は、当時の社会情勢にあります。
江戸時代には何度となく「奢多禁止令」なるぜいたく禁止令が出され、
金紗や刺繍、総鹿の子などの模様が禁じられました。
けれども、禁止されても どうにかオシャレな着物が着たい、と思うのが女心。
そんなファッション志向に応えるため、職人も染の技術で応えようと努力をした
のです。
なんとか禁令にふれないような、美しい染物を創りだそうという努力し、そうして
生まれた多くのアイデアによって、友禅染は新しい多彩な模様染めとしての
ブランドを確立していきました。
染色方法も、それまでの染料の溶液のなかに布地を浸して染める「浸染」から
染料を筆や刷毛につけて部分的に彩色した上、地色を引き染めするという方法
に変わっていきます。
友禅染の完成は、ぜいたく禁止令が引き金になったともいえるのですね。
全国に広まりつつあった友禅染ではありましたが、それは限られた地域と
限られた人々への供給にとどまっていました。
というのも、その時代の植物染料は供給量が限られていた上、全て手作業で
作られていたため生産はごく少量で、極めて高価なものだったからです。
ですから、友禅染が完成した江戸時代中期以降も、友禅染に携わった人々は
大衆化にむけて、色々な工夫や技術の改良を続けていたのです。
明治時代になると、友禅染にさらなる革命が訪れました。
それは、広瀬治助による、科学染料を使った型友禅の完成です。
治助はもともと、模様の部分に、小さな刷毛や筆で染料を塗っていく、挿し友禅
の名人でした。
なぜそんな彼が型染めの研究を熱心に行ったのでしょうか。
それは、華やかで美しい友禅染の着物を民衆に開放し、より多くの女性に
着てもらいたいという願いが強かったからでしょう。
女心に応えることが、友禅染の革新の機動力だったということですね。
こうして完成していった型友禅ですが、当初は、挿し友禅に対して、技術が未熟
であるとされ、邪道扱いされていました。
しかし、治助は、さらに研究を重ねることで、技術を確立していったのです。
物によっては十数枚、あるいは百枚を超える型紙を使って、型染め独自の
美しさを表現し、染色技術の幅を広げていったのです。
明治時代の産業革命以後も、技術者による革新は続いていきました。
模様を染めるために必要な技術は、次々に発達していき、その技を使い分ける
ことによって、豪華多彩な模様を描いていったのです。
そうして、友禅染は、絢爛豪華で優美な日本を代表する染物となりました。
ブーム絶頂期には、五十万円の値札を付けて一週間ショーウィンドに出しても
売れなかったものが、一ヵ月後に百万円の値段をつけて再び売り出すと、
すぐに売れたという逸話も残っているそうです。
けれども、現在は着物の需要も減り、京都にひしめいていた染関係の会社も
年々減ってきているという状態です。
職人の数は減り、後継ぎもいないので、技術は途絶え、問屋街である室町
からも、目利きの旦那が減ってきているため、職人の仕事が正しく評価されない
こともあるというのです。
友禅染は試練の中に立たされているともいえます。
その対策として、友禅染の長い伝統を踏まえつつ、その技術をアロハなど
新しい分野の中に活かしていこうという動きもあります。
こうした動きがより盛んになることで、忘れられかけた職人の技術を伝えていける
ようになり、再び、美しい友禅染が、その勢いを取り戻してくれることを
願ってやみません。
2005年12月31日 12:46
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