花嫁衣裳の移り変わり

時代ごとに婚礼の儀礼花嫁衣装の変遷をたどってみましょう。

●平安・鎌倉時代
 平安・鎌倉時代は、男女とも早婚で婿入り婚でした。
 平安時代の花嫁衣装は、皇族は唐衣裳姿(十二単)でしたが、
 公家の姫君は祝宴の間、小袿※(こうちぎ)姿でした。  ※打ちかけの元
 袴に白小袖、白袿を八領重ね、その上から二倍(ふたえ)織物の
 濃蘇芳(すおう)・葡萄(えび)・松重などの小袿を着用したようです。
 
●鎌倉時代 
 男女とも衣服が簡略かつ活動的になり、花嫁衣裳も袴に白小袖を着用し、
 その上に色ものの袿や小袿を二〜三領重ねたものになりました。

●室町時代
 室町幕府が開かれ、武家の社会になると、婚礼は、婿入り婚から嫁入り婚
 に変わりました。
 花嫁衣裳が白装束となったのは、この時代からです。
 白は無色で潔白をあらわすとともに、神聖・清浄をあらわすものとして、
 吉凶いずれにも使われました。
 平安時代には、婚礼の祝宴はこの頃は三日三晩行われていましたが、
 室町時代になると、四日めから色もののきものにとりかえる風がおこり、
 これがお色直しとなりました。

●戦国時代
 一時衣服史もとだえてしまいますが、白装束の風習は、江戸時代まで
 つづきました。

●安土桃山時代
 この時代は、染織などの工芸技術が飛躍的に進歩した時期です。
 秀吉が西陣をバックアップしましたので、織物が盛んとなり、華麗な
 打ち掛けがつくられたり、また中国からの技術導入もあって、刺繍や
 金銀糸の加工にも格段の進歩がみられました。

●江戸時代
 江戸時代になると、皇族では、唐衣裳姿(十二単)の晴れ着が復活し、
 髪型は両横にびんを張る「びんだし」のすべらかしになりました。
 また、公家の花嫁は小袿を、武家の花嫁は白装束の打ち掛け姿に
 被衣をかぶりました。
 一般の花嫁衣裳はおおよそ武家に準じたものでしたが、江戸時代
 中期頃より、被衣にかえて綿帽子をかぶるようになりました。また、
 元禄の頃、役者のはじめた揚帽子(角かくし)が、一般に流行し、
 花嫁のかぶりものとして用いられるようになり、やがて武家社会にも
 ひろまりました。
 江戸末期になると、黒や赤の打ち掛けも用いられるようになり、
 この風習は明治の初期まで続きました。 
 それまで胸もとにはさんでいた懐紙は、七つ道具をいれる筥迫(はこせこ)
 にかわり、必ず花嫁の胸もとに差すようになりました。
 この頃より、一日のうちに儀式と祝宴の両方をおこなう形に短縮され
 ました。

●明治・大正時代
 江戸末期頃から花嫁衣裳もしだいに簡略となり、明治になると、
 一般では白の打ち掛け、又は黒振袖の裾模様に丸帯、髪は島田髷に
 角かくしとなり、現在の花嫁姿にほぼ近い形になりました。
 黒振袖には縮緬や羽二重が多く使われ、素材も柔らかいものに
 なりました。
 また、明治の中頃から、上に黒・中に赤・下に白の三枚重ねの花嫁衣裳
 がはじまり、大正時代になると流行しました。

●昭和から平成
 昭和初期の一般の花嫁衣裳は、ほぼ大正時代のまま黒振袖の裾模様に
 島田髷(しまだまげ)でしたが、戦争が激しくなるにつれて装いは簡略に
 なり、終戦前後からは普段着のままの式も珍しくありませんでした。
 戦後の混乱がおさまった昭和三十年代頃から、ふたたび打ち掛けが
 用いられるようになり、黒振袖にかわり主流になりました。
 
 現代、花嫁衣裳は、和装の場合そのほとんどが打ち掛け姿です。
 最近では、白無垢のほかに、金・銀・色糸で刺繍を入れたり、さまざまな
 色の色打ち掛けが作られていますので、花嫁の好みに合わせて装う時代
 になりました。挙式後の披露宴の間に色直しをするのが一般的ですが、
 その装いは大振袖が正式です。
 ちなみに花婿の装いは、黒羽二重の染め抜き五つ紋つきのきものに、
 同様の羽織、これに仙台平の袴です。

 さらに、現在では、打ち掛けは魅力だけど、かつらが重そうとか、
 似合わない、水白粉は好きじゃないなどと、いくつかの不安の声も
 聞かれました。
 そこで、和装花嫁衣裳発信の地である京都の打ち掛けを作っている業者
 が集まって、次の時代の和装花嫁衣裳を提案し、『舞カレン』と
 名づけられました。
 後ろに裾を引く豪華なデザインのニューブライダルコスチュームで、 
 日本髪でなく、洋髪をアレンジし、メイクもナチュラルメイクです。 
 着付けも苦しくなく、衣裳も重くありません。
 西陣の最高の技術を駆使して織り上げた白無垢や、色打ち掛けも
 豊富です。










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2005年11月05日 23:47

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