むかさのおばあちゃん

3歳から、高校卒業まで私は北海道で育ちました。
でも両親とも実家は宮崎で、まだ幼稚園の頃から、
夏休みといえば、2泊を旅の空で過ごして、里帰りのお付き合いをしたものでした。

まだ、青函連絡船があった頃。
どらの音とホタルの光・・・今でも覚えています。

本州についてからも、長い長い汽車の旅です。
また赤ちゃんだった弟は、列車の向かい合った座席の間に結ばれた
兵児帯(へこおび)のハンモックで、ねんねさせられたりしたものです。
絞りの入った、黒くてざらざらした兵児帯の感触・・・これまたよく覚えています。

この夏、台風の影響で、かなり水の上った宮崎でした。

むかさ小学校が、報道されて、
ここのプールで夏休みに、よそ者だけど、泳がせてもらったりしたな・・・
と思い出されました。
みんな真っ黒なのに、北海道から来た私だけ、白くてすぐわかったそうです。

むかさ小学校から少し歩いたところに、
おばあちゃんの家はありました。

お嫁に来て、着物のことを、ほどく仕事を一着300円ですることから初めて、
お姑さんにいろいろと教えてもらって、
そして、自分で反物を扱ったりして、着物で身を立てた女性。
京都へも仕入に来たりもしていたそうなんですが、その頃私は、中学生くらいだったのかなぁ。。。

私の母のお母さん。
55歳という若さで、亡くなりました。

母の弟のところにも孫ができたと手伝いに行って、
その家の隣の人がガス自殺を図り、巻き添えに・・・。

赤ちゃんは、ベッドで高い位置にいたので無事だったけれど・・・。

母は急いで飛びました。けれども乗り継ぎの飛行機がまだ飛び立つ前に、
引き返してくださいとのアナウンスを聞き、
間に合わなかったことを知ったといいます。

高校生、多感な頃の私は、本当に心を痛めました。
人生というものは、いつ終わるかわからない。

すでにそんなことを心にとめて生きるようになりました。

でも、月日は流れ、むかさのおばあちゃんのことも
すっかり記憶の彼方だった今日この頃だけど、
着物問屋さんに出会い、また、
今このサイトも通じて、着物に関わって生きていこうと思っている自分は、
きっと、祖母にも導かれているんだな・・・と感じています。

だからね、頑張るよ。
母も何だかうれしそうです。
                 
私が来た振袖は、この夏の水に浸かってしまいました。
私の後に、あの時赤ちゃんだったいとこも着た着物です。

時はどんどん流れて、形のあるものが消えていっても、
ずっと変わらない、思い出。
それを胸にすれば、
いつまでも光を感じていられそうです。

さ、まだまだこれからだけど、
こつこつとやっていこう。

よろしくね、むかさのおばあちゃん!


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2005年10月22日 22:02

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