室町時代
室町小袖は、現代の着物の源流です。
平安、鎌倉時代の衣服は、古代中国の衣服のように広そででしたが、
室町時代になると、小袖が、急速に表着として、着られはじめます。
大層な衣服が簡略化され、それまできていたものを脱ぎ、当然のことですが、
下に着ていたものが上着化するわけです。
小袖はもともと、広そでの衣服の下着でした。
大きなそでの広そでに対する小袖で、それが上着として、となると、
そのままの形ではもう一つボリュームがなく、筒袖はさみしいので、それに振りが
つくようになりました。けれども名前はそのまま小袖と呼ばれました。
私たちが現在着ている着物は、この室町小袖が源流なのです。
上流階級の女性は、小袖を三、四枚重ねて細帯を締め、その上からひときわ
立派な小袖を打ち掛けて着ました。
この一番上に着た小袖が、他の物に比べて特に華麗で、みごとだったので、
“打ち掛け”と呼ばれるようになりました。
ただし、一般の女性は小袖に細帯という簡単な衣服でした。
この時代は、中国から宋、元、明などの染織品が貿易で入ってきましたし、
それとともに、明の職人が招かれて、日本でこれらの指導にあたりましたので、
染織技術はいっそう磨かれ、その粋といわれる高度な能衣裳なども
生み出されたのです。
なお、応永年間(1394〜1427)に、朝鮮から木綿が入ってきたことも
特筆べきことでしょう。
ここで西陣のことにふれてみたいと思います。
銀閣寺を建てた足利義政(第八代将軍)と妻の日野富子との間には
後継者となる男児が生まれず、一番近い身内の、当時、浄土宗の僧籍に
あった弟を俗環させ、足利義視と改めさせて、莫大な財産の後継者と決めた
のですが、運命の皮肉で、その後男児、義尚が生まれ、今後継者問題に
端を発して、応仁元年(1467)、応仁の乱が始まるのです。
最初の火の手があがった京都ですが、日野富子側は山名宗全に応援を頼み、
義視側は細川勝元を頭に、堀川通をはさんで、山名宗全は西に陣をとり、
細川勝元は東のほうに陣をつくり、11年間ものあいだ、戦争をしたのでした。
山名宗全が陣を張ったあたりは、もともと宮中の織物を司る人たちが多く
住んでいたのですが、あるものは堺や山口に疎開し、あるものは死に、
あるものは逃げ延びて、京の地はすっかり荒廃してしまいました。
多くの人の命を奪い、家屋敷を焼いたこの戦いも、渦中の人が次々と
亡くなっていき、文明九年(1477)に終わりをつげます。
そして、疎開をしていた人達も都へ戻り始め、再びもとの地で織物を始め
ましたが、このあたり山名宗全の西の陣があったところなので、
だれいうとなく、“西陣”と呼ぶようになったのです。
現在、御所の北西24キロ四方を西陣と呼んでいますが、ここは、西陣区でも
西陣町でもありません。
行政的には区分はありませんが、このあたりは現在、日本最大の織物の産地
として、着物、帯はもちろん、ネクタイから緞帳にいたるまで、あらゆる種類の
織物が織られています。
< 参考引用文献〜京の着つけと帯結び〜 >
2005年12月23日 23:36
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