平安時代

王朝の美装とともに、衣更(ころもがえ)の風習があったこの時代。
平安時代といえば、十二単(じゅうにひとえ)、というほど、
あのみやびやかで美しい衣裳には、平安朝を彩った女人たちの生涯や
華やかな宮廷生活のさまが想像できますが、十二単が完成したのは、
平安時代も中頃と思われます。

平安時代は、服飾的にはまだ奈良時代の延長で、唐風のものが着用されて
いました。

遣唐使は、平安時代に入ってから二回出されましたが、唐の国が乱れ始めて
からは、危惧もあり、寛平6年(894)菅原道真が中止しました。
およそ二百年もの長きに渡って合計十五回派遣された遣唐使。
すでに、唐文化のよいところは吸収しつくしており、中止をきっかけにして、
唐一色だった日本の文化が、徐々に、日本人による、日本の気候や風土、
社会にあった文化を生み育て始めます。

平安時代は貴族政治でしたから、いやがうえにも貴族の衣服は華美になって
いきます。
そのうえ都であった京都の底冷えの冬は、今想像する以上に
大変な寒さだったことでしょう。
貴族達が、何枚もの袿(うちぎ、うちかけ)をかさねて着て、暖を取ったことは、
容易に想像できます。

文献によると、十二単は、十二枚にとどまらず、二十四、五枚も重ねたという
記録があり、その厚さは、胸もとで、何と15センチもあったということです。
当時は、十二単とは呼ばずに、“女官装束”“唐衣(からぎぬ)・裳姿(もすがた)”
と呼びました。
つまり、一番上に羽織のように着た物を“唐衣”、後ろへ引いたのが“裳”、
その両方をつめて、唐衣・裳姿、と呼んだのです。
それは、貴族の女性達の第一礼装で、天皇のおそばにお仕えするとき、
拝謁を賜わる時、また、まつりごとや五穀豊穣を祈る“五節の舞”のときなどに
彼女達はこの衣裳に身を包んだのでした。
この晴れ装束に対し、唐衣・裳を略するのを“褻(け)”の装束といいます。
こうした女性達も、普段は袿姿でした。

一条天皇の頃(1000)、紫式部が書いた世界最古の長編小説「源氏物語」
には、後にさし絵も描かれましたが、その絵巻をみると、当時唐衣・裳姿が
完成していたことがわかります。
源氏物語は、男女の感情の機微のみならず、登場する女性の生活や
服飾のことが細部まで描かれていて、平安朝の女人達のみやびやかで
人間くさい生き方が多くの人を魅了しています。

さて、平安時代の美意識は、重ね着のそで口やすそに鮮やかな彩りをみせる
衣の色の組み合わせでした。
几帳のかげや、牛車のすだれの端からのぞく袿のすそや、そっと顔を覆う
そで口にこぼれる着物の色の組み合わせをみて、男たちは、
教養ある女性とか、センスのよい女性と、女のうわさをとりどりにしたそうです。
“紅梅”“山吹”“萌葱匂(もえぎにおい)”などと名づけられた重ねの色目は、
80種にも及んだといわれるほどニュアンスも様々で、それを身につけた女人の
人となりや、個性を心にくいまでに表現しました。

この見せる美の為に、裕福な貴族たちは、自分の屋敷内に、染織や縫製の
職人をかかえ、表着や唐衣、袿などの二倍(ふたえ)織物に、一族固有の文様
を持っていました。

こうしてみていくと、平安時代の衣服には、広いそでや衿などに、古代中国の
服飾の形などを借りながらも、日本人本来の繊細な、優れた心遣いをしている
ことがよくわかります。
動きにつれてちらっと人目にたつところに、四季折々の草花を思わせる
色使いを考えたり、唐衣の後えりぐりの“髪置(髪の毛で着物のえりが
汚れそうな場所に細かい配慮をしたもの)”などがそれで、生活の中に
貴族たちの豊かな心のゆとりが感じられます。

また“衣更”の風習は、早くもこの時代から見られます。
四月一日になると、いっせいに夏物になり、九月までを夏装束として、
紗、羅、縠(こめ)などを薄物と呼んで着用しています。
源氏物語絵巻“夕霧”の中に、夕霧と雲井の雁を描いた絵がありますが、
雲井の雁のきものは、夏の生絹(すずし)のひとえなので、両腕が透き通って
みえています。
ころもがえといっても、きものだけを夏物・冬物に替えるのではなく、家具、調度、
インテリアまでも四月一日からは、いっせいに夏物に替えました。
たとえば、冬の几帳は白絹地に、蘇芳(赤)で朽木形の模様を描きましたが、
夏になると、白の生絹に山水などを涼しげに描いたものを使いました。
また、火鉢なども片付けて、青すだれをかけ、宮中では天皇の御座も
替えました。十月から三月末までは、冬物として綾、唐織の袿になります。
貴族達は唐衣や表着に、二倍織物を着用しました。

唐衣・裳姿には、必ず桧扇を持ちます。
奈良時代のうちわにかわって、平安時代になると、日本人の発明になる扇子を
持ちました。
これは暑いからあおぐという実用性より、儀式の小物としての意味が強く、
あるときは、物を指すときの手のかわりとしたりしました。
この唐衣・裳姿は、現在皇室の婚礼の式服として残っています。
ただ、おすべらかしの形が違います。当時はまだ結髪の技術がなかったので、
真ん中から分けるだけの“振り分けおすべらかし”でした。
十七世紀以後、結髪の風習ができてからは、両横にびんを張る“びん出しの
おすべらかし”となっています。

唐衣・裳姿に見られる重ね着のあり方は、わざわざ重ね着をすることで、
威儀を正したというところに、式服としての重要な意味がありました。
現在、衣服の枚数が略されて、じゅばんと表着のみになっていますが、
振りそで、留めそで、男子紋服などの式服に、重ね着(現在、一部で
比翼仕立てになっていますが)をするのは、実は、千年前の十二単に起源が
あるのです。
また、現在式服に扇子を持つのも、やはり十二単に始まっています。
平安時代の公家たちの服装に関する資料は数多くありますが、
一般庶民の衣服についての資料は乏しく、当時の庶民は簡単な小袖に
細い帯を締めていた程度だったのでしょう。

「おごる平家は久しからず」で平家一門が壇ノ浦にほろびたあと、鎌倉幕府が
ひらかれ、世は貴族政治から武家政治へと大きく変わっていきます。
この平安末期から、鎌倉時代にかけての上流社会の外出着に、壺装束が
あります。壺装束の名は、長い袿をウエストの位置でつぼめて着たので、
その名がつきました。つまり、すそを引く長い衣服を、外出時歩きやすくする
ための着つけの工夫で、からげること、はしょることのはじまりです。
これは、外出姿(旅姿、神詣姿)なので、笠をつけ、それにからむしの繊維で
作ったオーガンジーのようなカーテンをつけています。
一名“むしのたれ衣”といい、毒虫が顔をさすのを避けるためでした。
この虫の垂れ衣は、虫を避けるとともに、平安朝以来の上流階級の女性が
顔をあからさまにしない風習のなごりでもありました。

                 < 参考引用文献〜京の着つけと帯結び〜 >

2005年12月23日 23:34

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:

コメント

コメントはこちらからどうぞ




保存しますか?