江戸時代

この時代は、帯幅がだんだん広くなり、結髪の風潮が広まります。

慶長五年(1600)、徳川家康が関が原の戦いで勝利をおさめてから、
大政奉還(1867)に至るまでの267年間の江戸時代のうちには、鎖国もあり、
外来の文化の影響を受けないで、国内のみで衣服の形が移り変わって
いきました。

<前期>
桃山時代から引き続いて小袖に細帯という姿でした。
ヘアスタイルは、唐輪といって、無雑作に上部でまげをつくりました。
<中期>
帯幅がだんだん広くなり、それにつれて結髪の風潮が広まり始めます。
帯幅と比例するように、ヘアスタイルが大きくなっていきました。
<後期>
小袖に丸帯で、日本髪が完成します。帯幅はそれまで、二、三寸(約10センチ)
だったものが、八寸〜一尺(約30センチ)にもなり、着物の柄も、総模様から
すそ模様へと移っていきます。

江戸前期の帯の種類としては、細帯と名護帯の二通りがあります。
名護屋帯は、室町時代の末から江戸時代にかけて締められていた帯で、
帯締めのような九尺(2.7メートル)の丸打ちの両端に房のついたものを、
体に3回ぐらい巻いて、後ろで蝶結びにしていました。
これは、九州の名護屋にいた明の職人によって組まれた紐が始まりだと
言われています。
細帯は、幅4センチほど、長さは3〜4メートルあったのでしょう。
この細帯はだんだん幅が広くなっていきます。

帯結びは、帯幅が広くなってくるといろいろな結び方が出てきます。
江戸時代のファッションクリエーターは、歌舞伎役者や、芸者でした。
上村吉弥は、延宝年間(1673〜1680)の名優ですが、
紺屋のおしゅんという娘が、帯の両端を垂らして通ったのをみて、さっそく
その結び方を舞台でしたところ、カッコイイと受けて、“吉弥結び”の名で
大流行しました。
また、槍踊りで有名な水木辰之助の帯がいいといっては“水木結び”、
瀬川路考は“路考結び”。

柄では、菊五郎の着た格子の着物の柄が、これまでの格子と違ってよい
というので、“菊五郎格子”、佐野川市松が中村座の舞台の「高野心中」で着た
石畳模様の衣装が人気を呼び、“市松模様”と呼ばれ、段十郎の袴の縞が
よいというので、“段十郎縞”として流行しました。

ヘアスタイルでも勝山という芸者の結ったまげが、つとが長くていいとなると
“勝山まげ”といってはやります。

こうした風潮のなかで生まれたものの中に、“太鼓結び”があります。
これは、文化14年(1817)、東京・亀戸天神の太鼓橋の完成記念のお祭り
のときに、深川の芸者が、これまた幅の広い帯を、帯締めも帯揚げも使わず、
ただ引き結びにしていたものを、後ろの太鼓を少し持ち上げて、
それがずり落ちてこないように紐で留め、胸もとには小ぎれをあしらって、
しゃなりしゃなりと太鼓橋を渡ったのでした。
太鼓橋を渡る時に締めていた帯形だから“太鼓結び”と名づけられたとか、
また太鼓橋の形になぞらえて帯枕を入れ、帯形をうまく膨らませたから
その名がついたとか、諸説がありますが、いずれにしても、これを境として
帯締め、帯揚げが、和装小物として新しく登場しました。

それにしても、江戸時代に二百種類もあったといわれる種々の帯結びの中で
現在でも太鼓結びがされているというのは、この結び方で体にフィットしたこと
また、ゆるみや形崩れが比較的少なかったことが、現在までも続いてきた
理由でしょう。

さて、江戸時代の服飾史の中で、もっともはなやかな出来事は、もちろん
“友禅染”の普及です。
それまでの日本の服飾史は、織りの歴史が長く、非常に精緻な織物が
つくられましたが、絹布に絵を描くことは、服飾の分野での大きな課題の
一つでした。
友禅というのは、もちろん宮崎友禅斉のことで、いかにも友禅染の元祖のよう
ですが、技術的な元祖というよりは、着物デザイナーのパイオニアと
いったほうが正しいのではないでしょうか。
宮崎友禅斉は、京都知恩院山門近くに住んでいた扇面の絵師であったことは
まちがいないのですが、出生年月日や素性についてははっきりしていません。
けれども、ある呉服店の依頼で、小袖に絵を描いたところ、これが評判になり、
次々に依頼があったということです。
しかし、白布地に絵を描いてにじませないようにするとか、あるいはその色を
定着させるとか、つまり今でいう、糊伏せとか、蒸し(蒸して蒸気をあて、発色と
色止めをすること)とか、友禅染の工程の操作は、江戸の職人たちが何度も
何度も失敗を重ねながら完成していったのでしょう。

ところで、江戸時代も、職業や年齢によって、着物の装い方やヘアスタイル等に
違いがあったことはもちろんですが、その中で特に、留めそでと振袖について
書いてみましょう。
この時代、娘は振り(そでつけから下のあき)のある着物、つまり振りそでを
着ていましたが、結婚すると、そで丈を短く(約30〜40センチ)して、
縫いとめました。
つまり、身八つ口のない着物、これを留めそでと呼んでいたのです。

井原西鶴の「俗つれづれ」によると、十九の秋には留袖を着た、とあります。
つまり、縁づくと否とに関わらず、十九、二十歳にもなれば、大人の衣服として
留袖を着たのです。
現在、留めそでというと、ミセスの礼装として、黒留めそで、色留めそで、の
二通りがあり、五つ紋付きのすそ模様の着物を指しますが、江戸時代の
留めそでは、縞もあれば無地もあり、友禅もあれば紬の留めそでもありました。
つまり、きものの形の呼び名であったわけです。
江戸時代の留めそでは、その後帯幅がだんだん広くなるとともに、
そで丈が長くなり始め、そうなると長いそでつけが不自由になり、
江戸中期以後、身八つ口を設けるようになりました。

現在の留めそでは、そで丈一尺四、五寸(50〜60センチ)で、五つ紋付き
裾模様です。そして、白下着を重ねるか、また比翼仕立てにしますが、
式服に重ね着をする習慣は、平安時代の唐衣・裳姿(十二単)に
みられるように、礼装として大層な重ね着をしたものが、時代とともに
五枚となり、三枚になり、そして現在は上着と下着の二枚重ねになりました。
今やその二枚重ねでさえ、二枚重ねに見える比翼仕立てが主流になって
きているということです。

江戸時代末期から明治にかけての婚礼衣装も、黒、赤、白の三枚重ねでしたが
この花嫁衣裳も、三枚重ねから二枚重ねに、そして比翼仕立てになっています。
婚礼衣装(掛け下振りそで、色直し大振りそで)、留めそで(黒留めそで、
色留めそで)、喪服、男子紋服などの式服に、重ね着をするということは、
千年このかた、厚さ寒さにかかわらず、わざわざ重ね着をして威儀をただし、
衣服に重厚味を演出したのでした。

                   < 参考引用文献〜京の着つけと帯結び〜 >

2005年12月23日 23:37

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