明治時代
洋髪への変化が、着物の柄や、着方に変化をもたらしました。
1868年、徳川慶喜が大政奉還して、東京遷都という形で幕を開けた明治時代。
江戸末期に、アメリカ使節ペリーが来日して以後、徐々にオランダ、イギリス、
フランスとも通商条約が結ばれ、鎖国という長い眠りから覚めた明治政府は、
次々に近代国家としての遅れを取り戻していきます。
まず、公家の衣冠を廃止し、明治天皇もちょんまげを切り、洋服を。
明治6年には、明治天皇の皇后が自ら、まゆをそることとお歯黒を禁止し、
平安時代から続いてきた風習は消えていきます。
明治初期も、女子の着物はまだおひきずりに着つけていました。
家庭内ではすそをひきずって歩き、外出のときはすそを持って歩くか、
抱え帯でつまをからげて出かけました。
明治五年、新橋・横浜間に初めて汽車が走ったときの見物衆の女房たちの
着物姿をみると、帯の下が異常に膨らんで、おおきなからあげがみられます。
これは、おひきずりに着物を着て、帯を結び、あとからおはしょりをとったので、
このように不自然にかさばっていたのです。
その後十年ほどして、ようやく、同じからげるなら帯を結ぶ前に、と
最初の着つけの段階でおはしょりを取り、着物の仕上げをして、最後の帯を結ぶ
という、現在の着付け方に変わっていくのです。
明治8年には、東京女子師範が開校し、その入学式には生徒はおそろいの
小倉袴姿で出席、皇后はおすべらかしに袴を着て、ハイヒールを履いて出席
なさったということです。
織物業界には、イギリスから紡績機械、フランスからはジャカード織の最新鋭
技術と機械が持ち込まれ、染物業界には、化学染料が大量に輸入されました。
化学染料は、イギリスの化学者ウィリアム・パーキンにより1856年に創製され
ており、江戸末期にはすでに幾種類かは、日本に輸入されていたようです。
これまでほとんど手作業で行っていた織物業界や、
自然の植物から染料を抽出していた染物業者に大きな衝撃を与え、高価な
一品製作といわれていた、手描友禅染においても、安価に量産できる型染めの
友禅が、その後開発されることになります。
そして、欧化政策のひとつとして、外国からのお客様の迎賓館として、
明治16年、鹿鳴館が建てられました。
そして、上流階級の女性達は、英国のヴィクトリア王朝風のバッスル・スタイル
に、束髪という格好で社交をしたのでした。
日本の女性が初めて洋服を着たのは、長崎の遊女が明治6年に、といわれて
いますが、なんといっても、この鹿鳴館を境として、しだいに上流社会から
洋服が一般化してきます。
こうして、女性は、服装も髪型も少しずつ開放されていき、束髪が流行すると
リボンをつけることが流行したりしました。
明治30年ごろ、着物の上に着る吾妻コートと呼ばれるものが流行し、
日本画の画材にもなりました。
羽織は、もともと男子の陣羽織がはじまりで、最古のものは、京都の豊国神社
に保存されている秀吉の羽織といわれていますが、桃山時代には男子の間に
かなり普及。江戸も安永の頃には、長羽織も流行し、お正月や結婚式などには、
裃をつけるか、黒羽二重の五つ紋付きの羽織袴が正式とされたものですが、
女子が着用するようになったのは、明治に入ってからです。
はじめは男の着ているものに憧れる風潮から、道中着の範囲でしたが、
明治も中頃になると、女子の羽織姿も一般化するようになります。
羽織から変化したものがコートで、吾妻コートや被布などが出始め、
明治32,3年ごろからはショールが流行。
ウール、ビロードなどが重宝されました。
髪型が日本髪から洋髪へと変化していったことは、着物の柄ゆきや装い方
にも変化をもたらします。
髪型が簡単になっていくにつれ、まず、襦袢の半衿が少しずつ色柄を失って
いきます。
江戸、明治には、美しい半衿がありました。江戸末期、帯幅が広くなり、
衿元を帯で固定できるようになると、えりもとの合わせ方やあけ方が自由に
できるようになり、思い思いに長襦袢の衿元をみせて競い合うことがあり、
和装のなかで一つの大きなチャームポイントでした。
けれども、髪型の変化は、徐々に衿元を簡略化していき、昭和にはいると、
色えり、柄えりは姿を消し、もっぱら白地になってしまうのです。
< 参考引用文献〜京の着つけと帯結び他〜 >
2005年12月23日 23:38
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